FESTIVALdeFRUE2023覚書。この感触を、忘れない間に。きっとまたこの日々のスペクタクルに1年悩まされると思う。考えて書くのは、その時でいい。
初めてFRUEの名前を聞いたのは、勤め先の音楽好きなおじさんやお姉さんの口からだった。そのシンプルな単語は店の喧騒によっていつもうまく聞き取れず、たどり着くまでに何ヶ月かかかった気もする。名前を聞いてしばらくした昨年の春、ひょんなことからzighoに遊びに行けることになった。まだなにも知らない私は、存分にぶらぶらして坂本慎太郎と、sam gendel&wilkesが、よかったなァなんて思いながら夢見心地で帰った。
そして、FESTIVALdeFRUE2022にも付いていけることに。たまたまFdF2022の形作られていく様子を遠くから見届けていた。大の大人が泣いたり、怒ったりして気持ちを注いで作るこの本祭はどうなるんだろうと、かなり緊張しながらその地を踏んだ。そもそも、大人が子供のように素直な気持ちで怒ったり泣いたりしているさまを目の当たりにするのは、ほとんど初めてだったかもしれない。この祭には、なんだかすごく純粋な魂が、中心のさらに奥のところで、ずっしりと構えているように思えてならない。最終的にその美しい場所に帰結しようという、あるいはそちらを選択せざるを得ない、といううっすらとした狂気のようなものを感じる。そんな感じで、祭りの要素をちょっとずつ聞いてはいたので、このいくつかの話が物語になればなーなんて思いながら当日を迎えたけれど、まったくそれどころではなかった。とんでもない時間だった。何もかもが目まぐるしく押し寄せて、右往左往するばかり。見たことない渦の中から、これって、、もしかしたらあの話がこうなってるのかな?とやっと発見するくらい。それぐらい、えげつない時間だった。私の人生は、これを機に変わった、と言ってもいい。というか、私のこれからの歩む道、考えること、この私の体を作る細胞が決めることは、この衝撃からの影響を免れ得ないな、と思う。これから私が何を選択しようと、必ず意識の端にこの体験が息をしていると思う。ベストアクトがどうのこうの、という訳ではない(非常に残念なことにpinoやsamの演奏には立ち会えなかったし)。その全てがすごいと言わざるを得ない、という放心状態だった。WWWでのアフターパーティは掛川を経てさらに濃密な演奏で、掛川で心神喪失していた自分を癒してくれた。
そんな衝撃に言葉も出ず、あれはなんだったんだろう、、と思いながら、またzighoへ。この日も、本当にすごかった。今でもはっきりと思い出せるのは、Bala DesejoのZé IbarraがDourado Douradoを一人で歌い始めた時。天はここにある、と思った。音が素粒子で、その振動が私の耳に届いてるんだというのを改めて自覚させる。きっとZéの声の音の震えは、視覚化しても、とても美しい画になるんだろうな。もちろんAmaroとGendelのドリームトリオも間違いなく素晴らしかった。Amaroは音源で聴いていたよりもずっとエネルギッシュで、思っていたよりもフレッシュだったけど、WWWではディープな演奏でうっとりした。ドリームトリオでは終始とろけ倒した。
そして、FESTIVALdeFRUE2023へ。この日が来るのを恐れていた。2ヶ月前から、、いやもっとだ。2022を終えた時に、来年も行かないと意味がないとすぐに思った。たったの一回で受け止めることなんて不可能だし、生を、呼吸を、押しては引く波を感じさせるこの祭典が、次にどんな顔を見せるのか、その変化を継続して味わってこそ、1回目の感動が現れ来るのだと、わかっていた。だから怖かったのだ。次にどんな体験を知ることになるのか。さらに、ここへ自分がどういった態度で臨めるかにもかかっていて、それを承知しつつ、一年模索し続けたままだった。納得のいく準備ができないまま、とにかく今年は楽しんでやる!という決意だけ固めて、おっかなびっくり一年ぶりに掛川へ足を踏み入れた。昨年は何よりもまず最初に驚きばかりで、感情の種類を仕分けたり、感動を味わう余裕もなかったので、目を、耳を澄ませ、気持ちよさの獲得にできるだけ集中した。いくつかの心に染み入る情景。1日目のAngel Bat Dawidの始まる時(実はこのときとっておきの場面に遭遇したのだけど、それはまたこんど)に、夕闇が場内に広がり、GEZANで夜へ、深く沈んでいくHallの様。2日目のTim Bernardesで優しい昼下がりの日光がさして、Sam Wilkesのsoloからstringsへ移行するのに寄り添って昼の白っぽい光から夕方の温かみのある光に変わってゆく。天気の良さには定評のあるFRUEだけど、この1日の光の加減までも織り込み済みの感じ、すてき。天候って、気持ちよさに直結するんだよね。去年は、こんなふうに上を見上げたり、空間に思いを馳せることなんてできなかった。ちょこちょことだけ顔を出したグラスステージも、夕暮れ時にプレイしていたBarrio lindoやGejuが、スローすぎず、早くない(早くないって、ちょー最高、ほんとに。)踊りやすい、踊りやすいからこそ抜け出せないあぶない沼みたいになっててアガった。DJは夜や朝〜正午くらいまでは聞くけど、あまり夕方に馴染みがなかったから、この時間にこのディープさ、とぶち抜かれてたのしかった。お酒はひたすらに楽しんだけど(カリフォルニアからのオレンジワイン!やFRUEオリジナルのビール美味しかったなー)フードまで手が回らなかったのが心残り。出店も、じっくり見ることができなかった。でも、どこを歩いていても雰囲気が統一されていて驚く。アニメや映画で、街中などの広大な土地を煙だったり魔法のようなものがどわーッと覆い尽くす描写があるけど、その容量で、全体を引いてみても、細かいところを見ても、ここまで感覚が通ってる!という抜かりなさ。夢から覚めることのない空間。これは、ひとりひとりの人間が怒ったり泣いたり笑ったり信じあったりして掬い集めたアイデアが、一つ一つ力を発揮しているからかも、と。何を基準に大きい、小さいと判断できるほどフェスにはほとんど行ったことはないのだけど、FRUEも小さくはないはず?たぶん。。この大きさを一つの精神で包み込む、そのギリギリをなんとか繋ぎ止めてるミソは、やっぱり人の手で作り上げられているところにあるのではないか、なんて思ったり。パーソナルスペースとかよくいうけど、人は自分が持ってる体のちょっと先の空気まで、自分の体として認識できる(市川浩「身の構造」でそんなことを読んだような)らしい。人間ができる範囲ではギリギリなんだけど、その、あとちょっと、の部分をみんなの手から放たれた少しの意識がつないでいるんじゃないかなー。アーティストの皆さん(演奏もそうだし、フードも、スタッフだって、そうかも)もみんなここでやることやるぞって気持ちが伝わってくる。ほんの少しの魔法のようなきらめき、心にシンッと沁み入る、なんとも言えないすてきな気持ちは、真心ゆえ。。?
そんなことを考えました。やっぱり、今年も行ってよかった。今年について書くには、これまでのことも振り返らざるを得なかったけど、それでも初めてのFRUE2022については、あの時あの衝撃を表現できる言葉を持ってなかったが最後なのか、今でも言い表すのは難しく感じた。牛田さんのレポートに尽きます。今回のFRUEの前日に読んでちょっと泣いちゃったもんね。あれから1週間。まだまだ、ここには書いていない気持ちや情景を整理しつつ、来年はどんな光景に出会えるんだろうとドキわくしながら、それまでしっかり自分の生活も前進させていこうと、思ったりするわけです。
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ー初日の朝。青い月が出ていて、いい日になる予感がした。青い月は、私にとって、おまじないでありお守りのような存在。雲一つない晴天のもと、久しぶりにこんなにくっきりしているのを見た気がする。
さて、ひとまずなんとか書きつけた!というわけでO–eastのAcid Pauliでひとまず私のFESTIVALdeFRUE2023を踊り締めまーす
lovekisblue.